未レンダリング
「先生」
学生時代は映像科に進んでおきながら、「先生はいらない」と自分に言い聞かせて映画を撮り続けていました。
そんな時期に知り合ったのが映画作家の佐藤真です。映像コースの教授でした。
映画のことで誰かに教えを乞うことには抵抗があるので、佐藤さんにも特に何かを質問したことはありません。ただ映画を作り、佐藤さんに持っていき、観てもらう。今でも映画を作ったら真っ先に佐藤さんに観てもらいたいです。その時自分は佐藤さんの眼差しを恐れ、体の芯から震えるだろうと思います。自分が映画を作っていく上で最大の恐怖と絶対的な信頼は佐藤さんの目でした。こんなことを言うと「あなたはあなたの目を信じなさい」と誰かに言われるかもしれません。いずれにせよ、佐藤さんの目はもう存在しないのですが。
「映画撮ってるなら授業さぼっていいよ」。
僕は佐藤さんの言葉に甘えて、佐藤さんの授業の大半をさぼりました。
映画を撮っていない日もさぼりました。寝過ごしました。
「ロメールを観なさい」
これは卒業間際、佐藤さんの言葉です。
失ってしまった多くの授業時間を取り戻すことはできませんが、その代わりにロメールの映画は観ています。
しかしなぜロメールを観よと僕に言ったのか、その理由はまだ分かりません。
そんな時期に知り合ったのが映画作家の佐藤真です。映像コースの教授でした。
映画のことで誰かに教えを乞うことには抵抗があるので、佐藤さんにも特に何かを質問したことはありません。ただ映画を作り、佐藤さんに持っていき、観てもらう。今でも映画を作ったら真っ先に佐藤さんに観てもらいたいです。その時自分は佐藤さんの眼差しを恐れ、体の芯から震えるだろうと思います。自分が映画を作っていく上で最大の恐怖と絶対的な信頼は佐藤さんの目でした。こんなことを言うと「あなたはあなたの目を信じなさい」と誰かに言われるかもしれません。いずれにせよ、佐藤さんの目はもう存在しないのですが。
「映画撮ってるなら授業さぼっていいよ」。
僕は佐藤さんの言葉に甘えて、佐藤さんの授業の大半をさぼりました。
映画を撮っていない日もさぼりました。寝過ごしました。
「ロメールを観なさい」
これは卒業間際、佐藤さんの言葉です。
失ってしまった多くの授業時間を取り戻すことはできませんが、その代わりにロメールの映画は観ています。
しかしなぜロメールを観よと僕に言ったのか、その理由はまだ分かりません。
2007年9月21日
「クラス会 2」

当日集まったのは14名でクラスの約半数。
自分は幹事だったこともあって、誰よりも早く会場に着いたつもりだったが先を越されてしまった。担任の先生が、開始30分前にも関わらず先生が会場の入り口で従業員と共にお出迎えしていたのである。思え ば、用務員さんより早く学校に来る人なのだ。迂闊だった。
先生はあらゆる局面で常に迅速な人である。
小学6年の頃、学校代表のリレーメンバーにクラスから三名が選抜された。レギュラーメンバーの4人中3人が担任のクラスから地区の体育祭に出場するわけで、スポーツと音楽をこよなく愛する先生にすれば嬉しい限りだったかもしれない。そのチームは常に地区予選を突破する地元強豪の一つだった。自分もリレーメンバーの一人なので憶えている。大会当日は冷たい雨が降って思わぬハプニングが起きたのだ。メンバーの一人が走行中に太ももの肉離れを起こしたのである。体が冷えていたのが原因だった。僕らのチームは一気に上位から下位へ脱落し、その後順位を上げるも一次予選で最後の大会を終える結果となった。
大会終了後、帰宅した自分が台所から雨の止んだ空を見上げていると家の前に見覚えのあるバンが止まった。先生の車だ。中には他のリレーメンバー二人が乗っている。これから僕を乗せ、肉離れを起こしたメンバーの家に見舞いに行こうというのである。気付くと急いでバンに乗っていた。中にいる先生やメンバーと顔を見合わせた途端に笑えてしまったことを憶えている。きっとほっとして笑えたのだ。スタンドで応援していた先生は、生徒の心のために誰より早く動き出したかったのではないだろうか。日はまだ沈んでいなかった。雨が上がった後の空気が心地よく、心に後悔も何もないことは自分たちの表情だけで怪我をしていたメンバーに伝えられた気がする。
それから12年後、ということになるだろうか。リレーメンバーの三人は集まっている。勿論、他にも思い出すことが山のようにある。僕らの担任はアウトローなのでここには書けないようなこともしていたりする。しかし、そのどれもが宝石なのである。いや、苦い思い出もあるかな。便所掃除の仕方なんて徹底的に教え込まれた。便所の床を「舐められるくらい綺麗に磨くように」にと言われながら(勿論舐めさせたりはしないが)?白いのは、気性の荒い先生がよく授業中に怒って職員室に戻ってしまうのだが、そんな時には学級委員の男女が迎えに行って機嫌をとらなければならない。そうしないと授業が再開されないし、先生の機嫌は更に悪くなる。まるで今僕らが生きている社会だ。先生より 早く給食に手を付けてはならないし、カレーやシチューなど皿の汚れるメニューが給食に含まれている時には、自分たちのポケットティッシュで皿を綺麗にしてからランチルームに食器を返しに行かなければならない。給食調理員さんのためだ。ここまでくると、社会で生きるための英才教育を受けて育てられた気がしてならない。
先生とのエピソード一つ一つが、クラスメイトの記憶を繋ぎ合わせることで蘇っていく。その場所では、僕が持っていない記憶を誰かが持っている。そして僕にも誰かに提供できる記憶がある。もっと人が集まれば あの頃に戻れそうな気さえする。
それぞれ外見は様変わりした。身長が著しく伸びた者も、メタボリック症候群の傾向がすでに表れている者もいる。しかしキャラクターは恐ろしいくらいそのまま。当時のいじられキャラは現在もいじられっぱなしで終わって不服そうだった。盛り上がったりしらけたりしながら、三次会が終了したところでクラス会は幕を閉じた。真夜中、国道沿いのカラオケ屋からそれぞれの家路につく。次に顔を合わせる時にはお父さんかお母さんになっているだろうか。何がどんな風に変化しているだろう。皆がどんな生活を送っているかを深く探り合うことはなかったから、再会を果たした今も彼らのその後に関して分からないことは多い。解決し ない悩みを抱える誰かにとってはそのことを忘れられる一時になったのかもしれない。でも誰も気付いてあげることは出来ない。昔のように何でも語れるような間柄ではない。元々何でも語り合っていたわけではないのかもしれない。ひとりひとりが今も生きていることが確かなことだった。
色々なことを忘れていく一方で、思い出せることには出来る限り触れていたい。
忘れることと忘れられることが怖いからだ。
思い出に浸ってばかりでは、東京に戻ってからが苦しい。
そう思いながらも皆の笑いの中に埋もれるしかない。
クラス会からの帰りは真っ暗で、自分は過去よりも未来を思っていた。 これからもっと速度を上げて歳を重ねていくことになる。
2007年8月22日
「クラス会」

幹事を引き受けたのは自分である。mixiで再会した旧友にそそのかされたのだ。近頃ありがちな話かもしれない。昔は生意気な小娘としか思っていなかった女子も綺麗になっているかもしれない…そんな下心が否めない。
ところが実際にクラス会へ向けて動き出そうとしてみても、具体的に何をすればよいのかがさっぱりわからない。そもそもお酒を飲めない自分が飲み会に出席する機会は極めて少なく、これまで「幹事」の姿を目にした記憶は朧げで「幹事」と名の付く仕事をしたことなど一度もない。
そんなことに今頃気が付いた人間が、12年前のクラスメイトに招集をかけようとしているのだからハードルは高い。
会場に相応しいお店や予算のこと、今まで出したことのない往復はがきの書き方、転校したクラスメイトの行方…。恥ずかしいことだが、24歳にもなってそんな初歩的な作業が自分一人ではどれもさっぱりである。しかしだからこそ、幹事の一つ引き受けて常識を学んでおいても仕事柄損にはならないのだ。そう思うことにして乗り切った。
クラス会の会場や予算に関しては友人に相談して即決。転校したクラスメイトの所在に関しては、友人の友人からの情報などを頼りにした。その後、クラスメイト33人に往復はがきを出し、数日後に宛て所不明で5通が舞い戻ってきた。しかし、残り28通(つまり八割方)の案内状は無事届いたことになる。一冊のアルバムによってかつての子供たちが今も繋がってしまうのが意外だ。結局、無事に届いた28通のうち24通の返信があり、残りは電話で連絡があった。…みんな意外と温かい。ほっとした。欠席者でさえ通信欄に「幹事お疲れ様」、「次回は参加します」など書き込んでくれている。…次回が何時になるかの予定はないが。
それぞれ忙しく慌ただしく生きているようで、返信の仕方は様々だ。その善し悪しではなく、12年の歳月をそれぞれの返信の中に垣間見ることができたのが個人的に面白かった。
さてさて、転校または転居によって行方が分からないままの旧友がまだ二人残っている…。どうしたものか。クラス会は六日後。
今後の監督日記ではクラス会のエピソードを書いてみようかと思っている。
2007年8月11日
「4時」

始発電車が準備を始める、午前4時。
まだ眠っている商店街を散歩する。
和菓子屋もクリーニング屋も、シャッターが開く気配はまるでない。
たったひとり、豆腐屋の爺さんが仕事を始めていた。
店の前を小鳥がのそのそと歩いているが、爺さんの方が機敏に動いている。
冷たい水の中で豆腐は生き生きと泳いでいる。
豆腐を掬う爺さんの手は冷たい水に触れた瞬間、瑞々しく変化した。
その若返った手のうつくしいこと。
あの豆腐、どんな感触がするだろう。
今晩買いにいってみようかと思いながら、豆腐屋をあとにした。
この付近ではクルマが走っていないが、遠くにバイクの音が聴こえる。
誰かが何処かに新聞を、ミルクを配達してくれているのだろうか。
誰かが働き出さなければ、一日は始まらない。
商店街を抜けて住宅街へ。
家々の間を一本道が続いて、遠い所で空に繋がっている。
鼠色した雲がごろごろ音を立てて運ばれていく。
黄色を垂らして雲で霞めたような光が見えた。
僕らが暮らす日常のすぐ上では、こんなとんでもないスケールの雲が動いている。
その恐しさに、何故もっと早く目を広げなかったのか。
朝の世界に訪れると、"気付きの瞬間"がそこかしこに広がっている。
足音が響く。
自分の足音が響くのなんて久しぶりに聴いた。
もう一、二時間経後の世界はどんなだろう。
配達された新聞が広がり、インクの匂いは広がり、牛乳のふたが飛ぶ。
でも、僕は新聞も牛乳もとっていない。
朝は遠くから聴こえてくる。
そんな生活を送っている。
2007年7月25日