真夏の夜の錯覚日記

akao赤尾零 あかおぜろ
1970年東京都出身。
映像制作業のかたわら、映画制作を行っている。
好きな音楽はラテン。



9月20日

さてここでは一見偉そうなのか理屈っぽいのか単なる大バカなのかわからないいつもの文体はやめて映画祭の感想を述べよう。

映画祭では出品者としても観客としてもとても楽しい時間を過ごせました。錯覚ではなかったと思います。スタッフの方々は若く意欲的かつ親切で、決して看板が手描き とかスクリーンが手作りとか学園祭じみているとかいうことではなくて、いい意味で手作りの温もりを感じました。上映趣旨を明確に述べてからプログラムに入る演出も 気が利いており、ラインナップ自体も興味深いものでした。意外にもビデオで撮られたヌーベルヴァーグとでもいうのかジャ・ジャンクーの初期作品を観られたことをは じめ、いろいろ収穫がありましたが詳しくは語らずにおきましょう。

みなさん、どうもありがとうございました。

写真の方は夭折した赤い金魚トトに代わり、最近秋祭りで新たにすくった二代目トトです。そういえば今日公園の池に瀕死のザリガニがいました。



8月31日

ウェブショップで木製のトイピアノを注文した。外国のサイトでは安く豊富なトイピアノを見かけるものの、国外発送不可であるとか配送料が異様に高いという理由で購入を思いとどまってきた。ゆうべ国内のショップをチェックしていたら在庫整理のた めか木製のものがたまたま低価格で放出されていたので数分の検討の後購入した。

トイピアノといえば、おもちゃ楽器を取り入れた音楽で有名なパスカル・コムラードのアルバムに「Musiques Pour Films vol.2」という名盤がある。「映画のための音楽 第2集」
ということだが、これは実在の映画のサントラではなく、映画を想定して作られた音楽ということらしい。想定した映画というのが実在の映画なのか架空の映画なのかは定かではない。Filmsとあるように複数の映画を想定しているようだから、その両方 かもしれない。しかしそもそも「第1集」というのが存在しないようなので、ひょっとすると「映画のための」ということ自体が偉大なる冗談なのかもしれない。いきさつはどうであれ、内容はすばらしい。音楽に飽きた、何を聴いてもつまらない、もう 音楽はいらない、そういう人は一度パスカル・コムラードに耳を貸してみるべきだろう。

映画に飽きた、何を観てもつまらない、もう映画はいらない、そういう人がそれでも映画をみるとすると何をみることになるのか?スタン・ブラッケージか?スーザン・ピットか?自分はまだそういう事態に陥ったことがないからわからない。

さて写真の方はビーズの飾りで作られた生物たちです。こんなようなものたちを毎日何回となく作るという境遇が続いているうちに8月は終わりました。



8月26日

映画に興味を持って以来の自分は比較的頻繁に映画館に足を運ぶ部類の人種になったといえよう。映画を観たと堂々と言うときはたいてい劇場で観たという意味で、VHSやDVDの場合は「ビデオでだけど観た」という少々意識過剰で言い訳がましい表現と なる。何に対して意識過剰で言い訳しているのかは深く考察していないが、例えばビデオで観ているうちはさほどのものではないと思っていたウォン・カーウァイ作品が、新文芸座の大スクリーンで浴びると、盛大なノイズ入りの疲弊したフィルムという悪 条件にもかかわらず、瞬時にして素直に名作に豹変する、といった魔術のような現象が起こるのは事実だ。

子どもが誕生したこともあってか最近映画館に行く回数が減ったが、それでも去年は30本近く観た。その中のベストを自主的に選ぶと、やや迷うものの、決して当映画祭の提灯を持つわけではなく、ジャ・ジャンクー「世界」になるだろう。

今年は旅行に出かけたこともあってか、まだ10本程度と少ない。中原昌也大嫌いという女性にうっかり、錯覚かもしれないが「エリエリ・レマ・サバクタニ」は音響映画の金字塔だ、とメールを送ると、それ以降音信が途絶えてしまった。「変態村」は 期待して観たらハズレだった、という人が自分以外に知っているだけで2人はいる。
「君と僕と虹色の世界」は意外におもしろかった、というのが自分と配偶者の数少ない意見の一致のひとつだ。今年のベストは「LOFT」になるのか、それともツァイ・ミ ンリャン2本のうちのどちらかだろうか、シャオカン監督作品に期待してもいいのだろうか、「パビリオン山椒魚」も早く観たい、毎年のことだが秋以降に目ぼしい作品が多数公開される。

さて写真の方は、近所で複数の家庭に居候しているという野良猫です。確か名前はシャンティかネコキチか。そして伐採が進み無残な姿をさらしている裏の密林。ちなみに黒デメキン・ベベは健在です。



8月16日

今年になってマリーザ・モンチのニューアルバムが2枚もリリースされていたことに気づき、2枚とも忘れないうちにアマゾンで注文する。マリーザ・モンチといえば96年のビデオ「Barulhinho Bom」は音楽ものとしては稀にみ る名作で、近年DVD化された。10年近い間にしつこく繰り返し観ているが、そのたびに絶望してしまう。マリーザ・モンチはブラジルの女性歌手だが、別に自分がブラジル人でないことに絶望するわけではない。スーパー16mmのフィルムで撮影されたというそのあまりにも画になる解放されたたたずまいから、全く対極にあるものを連想してしまうのだ。簡単にいうと、自分が、住宅事情の劣悪な食料も燃料も満足に自給できない 政治的にも無力な極東の小列島に生息する億を超える単一民族のひとりだと思い知らされるわけだ。この10年で閉塞感は確実に強まった。これは錯覚ではないだろう。本来のコンテンツとはおよそ無関係な個人の苛立ちや諦め、嘆きをも喚起してしまう、恐るべし「Barulhinho Bom」、やはり単なる音楽ビデオではない。人生に悲観した気力と体力の衰えた人が目にしたら自殺しかねない。危険な殺人ビデオである。

さて写真の方は、ゆうべ玄関前にいたコクワガタとその住みかであったと思しき密林です。中野区と新宿区の境に位置するこの貴重な密林も、この数週間の間に半分が伐採され、低額納税者には無縁な公団系集合住宅でも建つのではないかと、実に複雑かつ複合的な不快感にさいなまれています。



8月7日

錯覚かもしれないが最も怖ろしい漫画は水木しげるの「ベーレンホイターの女」だ。シニカルなギャグだとしても笑うには怖ろし過ぎる。魂というものが存在するとしても、それは見えないし聞こえないし触れないしにおいも味もないだろうから、通常は人を識別するのは肉体に依るしかない。オリジナルの肉体を失った人間はもはや他人だろう。肉体を失った魂はもはや人間ではない。肉体あっての人間ということだ。

肉体だけで魂がない人間ばかり出てくる映画はないかと思ったら、ゾンビ映画というものがあった。しかし登場人物が全員ゾンビだったらどうなるのだろう?ゾンビは誰に向かって襲いかかるのか?虚ろな目つきでただ徘徊するだけなのか?

逆に魂だけで肉体が出てこない映画はどうか?それこそほんものの幽霊映画ということになるのか?魂だけでは声を出せないとすると、彼らのつぶやきや叫びは延々と字幕で表現されることになるのか?それとも延々と墓地が映されているだけなのか?

いずれにしても退屈極まりないのが予想されるが、ゾンビや幽霊が監督した映画があれば観てみたい気はする。

さて写真の方は早くも死亡した赤い方の金魚トトです。1歳9ヶ月の娘が神妙な表情でのぞき込んでいます。



8月3日

紀伊国屋書店発売のDVDがレンタルショップに並ばないのはどういうわけだろう?資産も地位もない低額納税者には想像もつかない高度に政治的なスキームが背後に存在するのだろうか?単価が高いので観たい作品があっても毎度購入を躊躇してしまう。
定価を半額にすれば購入者が倍以上に増えるというロマンティックな可能性には賭けないのだろうか?どうしても観てみたいという誘惑に耐え切れず、2作品抱き合わせ販売という姑息な仕様でリストに並ぶ「アデュー・フィリピーヌ」を買ってしまった。
ギャグ映画の帝王JLGが絶賛しているので期待してしまったが、これはなんと初々しい映画だろう。写っていればいい、動いていればいい、そしてそれが映画である、と錯覚かもしれないけれど観終った瞬間はそう思ってしまう緩く衝撃的な作品であった。

さて写真の方は先日夏祭りの夜店ですくった金魚です。黒い方はベベ、赤い方はトトと呼ばれています。